1999(平成11)年7月に発足した政府の司法制度改革審議会は、昨年11月20日に中間報告を発表したが、同報告で示された三つの改革の柱の一つは国民的基盤の確立であり、その点に関して同報告は、「国民一人ひとりが、統治客体意識から脱却し、自立的でかつ社会的責任を負った統治主体として、互いに協力しながら自由で公正な社会の構築に参画していくことが、21世紀のこの国の発展を支える基盤であることを共有する。」「公共的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている国民が、裁判の過程に参加(関与)し、裁判内容に国民の健全な社会常識がより反映されるようになることによって、国民の司法に対する理解・支持が深まり、司法はより強固な国民的基盤(民主的正当性)を得ることができるようになる。」と述べている。当会は、同審議会の、司法への国民参加をより強固にしていくという方向性に賛意を表明するものである。
そして、当会は、強固な国民的基盤を持つ司法を実現するためには、陪審制度の導入が必要不可欠であると考える。なぜなら、陪審制度こそ、国民一人ひとりが真に統治主体として司法に参画する最も適切な制度であり、公共的事柄に対する能動的姿勢を強める最もふさわしい制度だからである。すなわち、陪審制度こそ、一般の国民が広く参加する制度であり、裁判内容の決定に主体的・実質的に関与する制度だからである。
これに対し、参審制などごく少数の市民が裁判官とともに合議して決する制度は、実際には裁判は裁判官に主導されることになり国民の関与は形式的になり易く、強固な国民的基盤を持つ司法の実現という観点からは不十分である。また、陪審制度に対する批判もあるが、いずれも実施過程で克服できるものである。
陪審制度は、約80年前に刑事事件について明治憲法下の私達の先人も取り入れた制度で、戦後の沖縄でも実施されていた。そして、静岡県でも陪審裁判が実施され、先人は立派に陪審員の任務を果たしていた。このように陪審制度は、決して私たちになじみがない制度ではないのである。
21世紀のわが国社会のあるべき司法の姿について、後世の批判に耐えうる改革のたしかな道筋を示すことは極めて重要であり、これは司法制度改革審議会や司法に携わる関係各機関の責務でもある。当会は、21世紀の冒頭にあたって、主として刑事事件について陪審制度を実現することを司法制度改革審議会や関係各機関に強く求めるものであり、当会もその実現に今後とも努力していく所存である。
提案理由
司法制度の抜本的な改革を目指す司法制度審議会が昨年11月20日に中間報告をまとめた。
そこでは、「国民一人ひとりが、統治客体意識から脱却し、自立的でかつ社会的責任を負った統治主体として、互いに協力しながら自由で公正な社会の構築に参画していくことが、21世紀のこの国の発展を支える基盤であることを共有する」「公共的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている国民が、裁判の過程に参加(関与)し、裁判内容に国民の健全な社会常識がより反映されるようになることによって、国民の司法に対する理解・支持が深まり、司法はより強固な国民的基盤(民主的正当性)を得ることができるようになる」と明記されている。
同審議会の、国民の司法参加をより強固にしていこうとする方向性に、当会は大いに賛同するものである。
裁判官には「社会常識がない」、「裁判を受ける人の真剣な思いを理解できない」などの批判が最近なされている。
また、我が国においては、冤罪事件である死刑再審4事件が端的に示すように、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事事件の大原則がないがしろにされてきた面がある。裁判に国民の健全な良識を反映させるべきだという声は、現在大きく広がっている。 また、現在の司法は、制度的に国民的基盤が脆弱であり、それが国民の統治主体意識への転換の障害になっている面は否定できない。
サミット参加国の中で、陪審制度や参審制度が採用されていないのは我が国だけであり、国民の司法参加の制度的遅れは著しいものがある。
そして、強固な国民的基盤を持つ司法を実現するためには、陪審制度の導入が必要不可欠であるといえる。
陪審制度は、事実認定について、10数人の国民がその社会経験をもとに考え、議論し、結論に達するものであり、多くの国民の健全な良識が反映されるものであるし、国民のこのような経験が、社会について考え関心をもち主権者としての意識を高めていくものであり、極めて重要な制度だといえるからである。
これに対し、参審制度など数人の国民が裁判官と合議の上決定していく制度は、国民が全く新鮮な目で公平無私に事実認定に向き合うという陪審制度の持つ良さとは異なるものであり、評議に職業裁判官が加わるときは真に自立した陪審員の判断が実現されない可能性がある。
我が国の裁判官に対しては、参審制度をとる国々に比してその自立性に強い疑問が投げかけられており、この意味でも、参審制度は、強固な国民的基盤を持つ司法を実現するための制度として、不十分だといえる。
陪審制度に対しては、「日本人は議論が下手である」とか、「国民性になじまない」などの批判がある。 また、「陪審制度は誤判が多い」とか、「テレビなどマスコミに影響されやすい」などの批判や、「陪審制度にはコストがかかる」などの批判もある。
しかし、現在、我が国においても検察審査会という制度があり、無作為に選ばれた11名の審査員が検察官の不起訴処分の当否を審査し、1998年までの50年間で約43万人の国民がこれに関与しているが、その真面目さと議論の活発さは大きく評価されているのであって、「議論が下手」だとか「国民性になじまない」ということはない。我が国でも戦前や戦後の沖縄で陪審制度が実施されていた時期があり、静岡県においても実施された記録が残っているが、それぞれ高い評価を受けていたのである。
また、「誤判が多い」という点についても、我が国における死刑再審4事件を始めとする冤罪事件が物語るように、職業裁判官の事実認定能力の方が必ずしも高いとはいえないし、むしろ、陪審団という集団による事実認定の方が信頼性が高いとの指摘もある。
「マスコミの影響」という点でも同様であり、職業的裁判官といえどもマスコミの影響を全く排除できず、むしろ職業的裁判官の方が平均的一般市民よりマスコミ報道を注視しているからより影響を受けやすいといえなくもない。
職業的裁判官は影響を受けないよう訓練しているのかもしれないが、陪審制度においてこの訓練に相当するものが裁判官の説示であり、説示を守れないそうもない者を排除する制度が陪審選定手続きである。むしろ、陪審においては、陪審選定手続きで予断や偏見を排除しうる制度的担保があるが、職業裁判官の裁判では裁判官の予断や偏見をチェックする制度はないのである。
さらに、「陪審制度にはコストがかかる」とされるが、予想されている費用はそれほど高額ではない。そして、民主主義の実践には多少のコストは必要経費である。
例えば、選挙制度はこれがある場合とない場合では前者の方が圧倒的にコストがかかるが、民主主義にとって選挙はなくてはならない制度であり、コストがかかるから止めるということにはならない。
司法の民主的基盤の強化のためにかかる費用は必要経費なのであって、これまでこのことにコストをかけてこなかったのは、安上がりの司法によって司法における民主的基盤を犠牲にしてきたという批判を免れないというべきである。
当会は、昨年来、日本弁護士連合会が実施した2度にわたるアメリカの裁判制度の視察に延べ28名の会員を派遣して陪審裁判や裁判官選任制度などを実際に見聞し研究してきた。そして、陪審裁判に臨む陪審員の真摯さ直向さに感銘を受けてきた。アメリカにおいては、陪審制度に対し、8割の国民がこれを信頼して支持し、職業的裁判官に対する信頼をはるかに凌駕している。
陪審制度は、最大限の敬意と信頼を与えられている。当会は、我国においても、国民が、陪審員の任務を立派に果せることを確信するものである。
陪審を信頼する裁判は国民から信頼される、国民を信頼する国家は世界から信頼されるとの言葉は、当会の思いと同一である。司法制度改革審議会や関係各機関が陪審制度の導入に明確な途を開くことを当会は強く望むものであり、当会もその実現に向かって努力することが今求められていると考えるものである。
以上