- 2013年に我が国が交渉に参加したTPP(環太平洋戦略経済連携協定)は,2014年に入り,12カ国間の関係閣僚会合がインドネシア,ベトナム,オーストラリア等において何度も開かれ,また,日米間での実務者協議も頻繁に開かれるなど,交渉が本格化し最終局面に入った様相を呈している。
更に,同年11月のアメリカ中間選挙の結果,及び同年12月の我が国の衆議院議員総選挙の結果を踏まえ,今後,交渉が加速化する可能性も高く,予断を許さない状況にある。 - 静岡県弁護士会は,2005年9月30日に静岡市内で開催された関東弁護士会連合会シンポジウム「食の安全・安心を考える」の担当会として,すべての人々に食品の消費者として,(1)安全な食品が確保される権利,(2)食品の安全に関する情報が提供される権利,(3)食品行政に参加する権利,が保障されるべきことを前提に,国及び自治体に対しその具体的な実現を求めることを提言した。そして,同日開催された同連合会定期大会において,この提言を内容とする大会宣言「持続可能型社会における『食の安全・安心』を求めて」が採択された。
TPPは,以下に述べるとおり,この宣言の趣旨を脅かすだけでなく,日本国憲法の基本原則や憲法の保障する基本的人権を侵害する恐れが極めて高いものであって,憲法を最高法規とする我が国の国家体制にとって看過できない重大な問題を含んでいる。 - 農業品目の関税撤廃と非関税障壁の撤廃
我が国の現在の食料自給率はカロリーベースによると,1972年の57パーセントから39パーセントに下ったと言われており,政府試算によっても,TPPにより関税が撤廃されるとこれが27パーセントまで下がることになる。即ち,73パーセントの食料を輸入に頼らざるを得ないことを意味する。そして,食料品の殆んどが農業品目を原材料としていることから考えると,我が国の農業品目の生産或いは流通に係わる分野,更には肥料,農業,飼料等の関連産業の分野の衰退は火を見るよりも明らかである。そして,それだけでなく,後述の非関税障壁の撤廃が適用されることになると,「食の安全・安心」を求めた前述の関東弁護士会連合会の宣言の趣旨も,これまで積み上げられてきた我が国の食品行政の到達点も一挙に崩壊することになるのである。
例えば,原産地,生鮮食品と加工食品の区別,遺伝子組み換えの有無,アレルギー物質を含むか否か等の現行の食品表示の問題をとってみても,これが撤廃されたとしたら,我が国の消費者は「食の安全・安心」に係る重要な情報を失うことになる。また,収穫後使用農薬(ポストハーベスト)の使用規制が撤廃されたとしたら,食の安全が守られない事態になりかねない。
これらの事態が生ずれば,日本国憲法が保障する国民の生命・自由及び幸福追求権(第13条)などに対する重大な侵害となる可能性が生ずるのである。 - 非関税障壁の問題について
TPPでは,非関税障壁(関税以外で貿易の障壁となる政策手段や制度,法令等)についても完全撤廃が原則とされており,予め例外規定をもうけない限り自由化される方式が採用されている(ネガティブリスト方式)。そして,実際,TPPで現在交渉されている21分野のうち,18の分野は,非関税障壁の撤廃に関するものといわれている。
しかし,非関税障壁は多くの場合,食の安全も含め国民の生命・健康・財産・環境等の保護を目的として設けられた法規制であり,その全廃は国民の重要な利益を侵害するものである。
前述の食の安全分野に留まらず,例えば,我が国では,サリドマイド事件やスモン事件の教訓をもとにした被害者運動の成果として,スモン訴訟後の薬事法改正により導入された医薬品の再評価制度などの独自の制度があるが,これが撤廃されると再び悲惨な薬害が繰り返される危険性がある。また,公的医療保険制度自体が,外国の保険会社や医薬品を高値で販売したい製薬会社にとっては非関税障壁となるものであるから,日本での国民皆保険制度が実質的に弱体化されるおそれが高い。
これらの事態が生ずれば,前述のとおり,日本国憲法が保障する国民の生命・自由及び幸福追求権(第13条)などに対する重大な侵害となる可能性が生ずるのである。 - ISDS条項について
TPPには,ISDS条項(投資家対国家の紛争解決条項)を含むことが確認されている。ISDS条項とは,自由貿易において投資家を保護するために,受け入れ国又は自治体の措置によって損害を被ったと主張する外国投資家が,受け入れ国又はその自治体を国際的な第三者機関(仲裁機関)に訴えることを可能にする条項である。この第三者機関は,米国のニューヨークにある世界銀行内の3人のビジネスローヤーである仲裁人による仲裁機関を予定しており,その審理は秘密裡に非公開で行われ,その判断は結論のみを示して判断の理由は示されず,上訴も許されないというものである。
ISDS条項判断の対象とされる事項は,法令,制度,慣行,事実行為,裁判所の判決等の広範な我が国又は自治体の行為であり,そのため,これらの行為が自由貿易の原則に違反し,投資家の利益を侵害したと判断されれば莫大な賠償を求められることになる。
従って,例えば,シャッター通りが目に余るとして大規模店舗の規制を強化した法改正が国会で議決・成立した場合に,この法改正が投資家の利益に反するとして日本国が仲裁機関に提訴された場合,3人のビジネスローヤーからなる仲裁機関が理由も示さずこの法改正は投資家の利益に反すると判断しさえすれば,日本国は莫大な賠償を余儀なくされるし,その後の提訴を防ぐためには改正した法律を再改正して元に戻さなければならなくなり,国会を唯一の立法機関と定めた日本国憲法第41条に実質的に反することになる。
また,例えば,我が国の裁判所の判断内容が,かかる第三者機関により投資家の利益を害するものと判断され,実質上その効力が停止されることになれば,我が国の裁判権(憲法76条1項)の事実上の放棄を意味する。一国の裁判権を投資家の利益のために放棄するような条項の締結は断じて許されるものではない。
このように,TPPのISDS条項は,条約により日本国憲法の基本原則を実質上変容させてしまうものであって,憲法の改正手続によらない実質上の憲法改正として,違憲の疑いが強いというべきである。 - 秘密保持協定の存在
政府はTPP交渉参加に先立ち,秘密保持協定を締結しており,交渉の実態を隠している。現在に至るまで国会及び国民の間で議論するための基礎となる確実性ある公の情報はこれまで政府から殆んど提供されていない。これでは,交渉の妥結に至るまではTPPの全容が見えないばかりか,見えたときには拙速な国会審議で強行採決へ一気に踏み切られてしまう可能性が極めて高く,日本国憲法が条約承認権を国会に与えた趣旨(73条3号但書)を没却することになる。また,国民の知る権利の観点からも問題である。
さらに,この秘密保持協定ではTPP発効後4年間は交渉内容や経過に関する秘密保持義務が課されているが,協定文自体は抽象的に書かれていることが多いため,その解釈の段階では,交渉の経過における各国の提案文書や交渉内容をもとに解釈されることになるので,結局,条約批准時においても,TPPの実際の内容は分からないということになる。つまり,この秘密保持協定によって,TPPの実際の内容が分からないまま,国会は批准を求められることになるのであって,その意味するところは,国会議員,ひいては国民には,TPPの実際が分からないままTPPが発効される危険性が極めて高いということであって,このような事態は,国民主権の原理に反するものだというべきである。
2013年春,安倍政権がTPP交渉へ参加表明をするにあたり,衆参両議院において,交渉により収集した情報を国会に報告し,かつ,国民にも十分な情報提供を行って幅広い国民的議論を行うよう措置する旨の決議がなされた。しかし,政府は重要な情報を国会や国民に提供しておらず,この決議に反した行動をとっている。 - 結論
以上より,TPPは,食の安全・安心などの国民の利益を害するばかりでなく,日本国憲法の基本原則や憲法の保障する基本的人権を侵害する恐れが極めて高いものであって,憲法を最高法規とする我が国の国家体制にとって看過できない重大な問題を多数含んでいることは明白である。
静岡県弁護士会は,上記諸問題を踏まえ,TPPの締結に断固反対するものである。
2015(平成27)年2月3日
静岡県弁護士会
会長 小長谷 保
静岡県弁護士会
会長 小長谷 保